小津安二郎 【映画・作品】
小津安二郎 (1903年12月12日~1963年12月12日)
yasuziro ozu
出生地 東京市深川区万年町(現・東京都江東区深川)
別名義 ヂェームス・槇(まき)*ペンネーム、原作などにクレジットされる。
深川産まれで、小学校の時に三重に引っ越しカメラ好きな子供で絵が上手く
アメリカ映画に刺激を受ける。
親の薦めで商業を学ぶが落第、教員になるも1年で終わる。
1923年松竹蒲田撮影所に入社、同年関東大震災が発生した事からも
蒲田撮影所は、時代劇ではなく現代劇メインの撮影所になる。
*当時はスタッフ・俳優共に○○撮影所の社員として其の撮影所のみで製作する。
1927年「懺悔の刃」でデビューしますが、唯一の時代劇作品を命じられ
完成近く、軍からの予備役召集で作品を離れるます。
サイレント量産時代から、戦争で1年10か月戦地に行く。
戦後は○○組と言うスタイル「小津組」を形成し、独自の小津スタイルで
パンを使わず、固定のローアングルが殆どの作品姿勢を貫き、起用する俳優も
原節子や笠智衆など決まった俳優が多かった。
当時の日本映画が海外で上映される事も少ない中で、
東京物語は英国サザーランド賞を受賞。その後内外で評価され多くの賞を受賞。
1963年4月がんセンターにて手術を受けるも、還暦を向かえる誕生日12月12日に他界
原節子は号泣し2015年に亡くなるまで退き姿を見せる事もなかった。
スタッフ・俳優に愛されますが、家庭を持たず生涯独身で監督の墓碑には
ただ「無」とだけ彫られています。
監督 脚本
年 タイトル |
サイレント作品 |
1927年 懺悔の刃 監督 |
1928年 若人の夢 監督、脚本 |
1928年 女房紛失 監督 |
1928年 カボチヤ 監督 *短編42分 |
1928年 引越し夫婦 監督 *短編40分 |
1928年 肉体美 監督、脚本 |
1929年 宝の山 監督 |
1929年 学生ロマンス 若き日 監督、脚本 |
1929年 和製喧嘩友達 監督 |
1929年 大学は出たけれど 監督 |
1929年 会社員生活 監督 |
1929年 突貫小僧 監督 *短編38分 |
1930年 結婚学入門 監督 |
1930年 朗かに歩め 監督 |
1930年 落第はしたけれど 監督 |
1930年 その夜の妻 監督 |
1930年 エロ神の怨霊 監督 *短編27分 |
1930年 足に触つた幸運 監督 |
1930年 お嬢さん 監督、脚本 |
1931年 淑女と髯 監督、脚本 |
1931年 美人哀愁 監督、脚本 |
1931年 東京の合唱 監督 |
1932年 春は御婦人から 監督 |
1932年 大人の見る繪本 生れてはみたけれど 監督、脚本 |
1932年 青春の夢いまいづこ 監督 |
1932年 また逢ふ日まで 監督 |
1933年 東京の女 監督 |
1933年 非常線の女 監督 |
1933年 出来ごころ 監督 |
1934年 母を恋はずや 監督 |
1934年 浮草物語 監督 |
1935年 箱入娘 監督 |
1935年 東京の宿 監督 |
1936年 大学よいとこ 監督 |
トーキー作品 |
1936年 鏡獅子 監督 *記録映画 |
1936年 一人息子 監督 |
1937年 淑女は何を忘れたか 監督、脚本 |
1937年 限りなき前進 原作 |
1941年 戸田家の兄妹 監督、脚本 |
1942年 父ありき 監督、脚本 |
1947年 長屋紳士録 監督、脚本 |
1948年 風の中の牝雞 監督、脚本 |
1949年 晩春 監督、脚本 |
1950年 宗方姉妹 監督、脚本 *新東宝 |
1951年 麦秋 監督、脚本 |
1952年 お茶漬の味 監督、脚本 |
1953年 東京物語 監督、脚本 |
1955年 月は上りぬ 脚本 |
1956年 早春 監督、脚本 |
1957年 東京暮色 監督、脚本 |
1958年 彼岸花 監督、脚本 |
1959年 お早よう 監督、脚本 |
1959年 浮草 監督、脚本 *大映 |
1960年 秋日和 監督、脚本 |
1961年 小早川家の秋 監督、脚本 *宝塚映画 |
1962年 秋刀魚の味 監督、脚本 |
1965年 大根と人参 原案 |
1965年 暖春 原作 |
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