松田優作 【映画・作品】
松田優作(1949年9月21日~1989年11月6日)
matsuda yusaku
出生地 日本山口県下関市
松田優作は、息子松田龍平、松田翔太の父であり太陽にほえろ!ジーパン刑事役で
有名になり、今でもモノマネでは殉職シーンを選択されるほど日本中に強烈な
新人俳優として、その熱い芝居がイメージ付けされたストイックな俳優でした。
山口県下関市で日本人の父と韓国人の母の未婚の両親の元で産まれ、山口で育つ
高校を中退しアメリカ国籍を得る為に、カリフォルニアの学校に転校するも帰国
東京に住み高校、大学へと進み1972年に劇団文学座付属演技研究所十二期生に
テレビのエキストラから、1973年太陽にほえろ!のレギュラーに抜擢、大人気に
同時期に帰化申請を行い日本国籍を取得。
続いて映画にも出演、竜馬暗殺(1974年)で共演した原田芳雄に惚れ込み
原田宅の隣に引っ越してしまう。 しかし1976年の打ち上げの席で怪我をさせ
傷害容疑で起訴執行猶予3年の有罪判決を受けてしまい、テレビは自粛し
暴力教室(1976年)で復帰、テレビは翌年大都会 PARTIIで本格復帰して
ファンは安心します。蘇える金狼(1979年)では外国で実弾での射撃練習をし
劇団「朴李蘭」を旗揚、野獣死すべし(1980年)では10kgの減量に奥歯4本を抜き
山ごもりをするなど自身を追い込んだ役作りで廻りを驚かせた。
イメージと異なる役を続々と演じる傾向がありましたが、1988年には癌に侵され
尿が出なくなるなど、延命治療の中、初のハリウッド作品ブラック・レインの
撮影に挑みますが、膀胱癌の腰部転移により40歳の若さで死去し、多くのファン
映画人、俳優仲間が深い悲しみに暮れた。
映像的には、一見誇張したイメージから情熱まかせに思われがちですが
白い衣装に血のりなど、動きや表情、カメラアングルなど考えている俳優なのは
映像からも解りますし、彼を知る方は、勉強熱心、監督を質問責めにするなど
作品の事を、誰よりも考えていた事を証言する言葉しか聞こえてこない程
いかに面白く出来るかに、努力し続けた俳優でした。
年 タイトル |
1973年 狼の紋章 東宝 |
1974年 ともだち 日活児童映画 |
1974年 竜馬暗殺、映画同人社・ATG |
1974年 あばよダチ公、日活 |
1976年 暴力教室、東映 |
1976年 ひとごろし、永田プロ・大映・映像京都 |
1977年 人間の証明、東映・角川映画 |
1978年 最も危険な遊戯、東映セントラルフィルム |
1978年 殺人遊戯、東映セントラルフィルム |
1978年 沖縄列伝・第一 島小 (しまぐわ) 自主ドキュメンタリー |
1979年 乱れからくり、東宝 |
1979年 俺達に墓はない、東映 |
1979年 蘇える金狼、東映・角川映画 |
1979年 処刑遊戯、東映セントラルフィルム |
1980年 レイプハンター 狙われた女、にっかつ |
1980年 薔薇の標的、東映 |
1980年 野獣死すべし、東映・角川映画 |
1981年 ヨコハマBJブルース、東映セントラルフィルム |
1981年 陽炎座、シネマ・プラセット 監督 鈴木清順 |
1983年 家族ゲーム、にっかつ・NCP・ATG、 監督 森田芳光 |
1983年 探偵物語、東映・角川映画 |
1985年 それから、東映 |
1986年 ア・ホーマンス、東映・キティフィルム |
1988年 嵐が丘、西友・西武メゾングループMEDIACTUEL |
1988年 華の乱、東映 |
1989年 ブラック・レイン、ジャッフェ、ランシング・プロ 監督リドリー・スコット |
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